実績からピックアップ・コーディネート編

ドイツ国営放送NDR制作「北海道・カムチャツカの旅」・2006年

北海道ロケ 根室から北方領土 北海道ロケ
ドイツクルーの北海道撮影ロケ

取材メモより~リサーチ

2001年まで北海道に住んでいた。当時、北方四島のビザなし交流が行われたり、小樽や根室にロシア船がやってきたりするニュースをしばしば目にしたが、自分自身がロシアや北方四島を取材する機会はなかった。ところが、パリに住んでいるいま、ロシアと北海道の取材が舞い込んできた。 ある日、ドイツ国営放送の有名なドキュメンタリストから「カムチャツカ半島から北海道までの紀行番組のスタッフになりませんか?」と電話がかかってきた。カムチャツカと北海道の交易の足跡を訪ねようとする企画だが、果たしてどんな関係があったのだろうか。

調べてみると、函館にはかつてウラジオストクなどの水産会社の支店があり、カムチャツカにも漁場があったという。ロシアの水産会社に雇われて、函館からカ ムチャツカへ働きに行っていた漁業関係者がいたそうだ。函館にはロシア人たちがよりどころにしたハリストス正教会がありロシア人墓地もある。かつてカム チャツカの神父が函館の教会に来たこともあるそうだ。函館の神父さんによると、つい最近もサンクトーペテルブルグからロシア人墓地に埋葬されている先祖を 訪ねて来たロシア人がいる。

隣の国とはいえ、遠く感じていたロシア。フランスに来てから取材に出かけることになろうとは考えても見なかった。いま、ロシア人でパリに住んでいるコー ディネーターのナターシャと私が、ドイツ人ドキュメンタリストから依頼された取材先を探し、ビザや宿泊先などの準備している。

(2006年5月24日)

撮影機材の重量に注意

パリの自宅を出たのは2006年10月2日早朝。ロワシー空港からエアーフランスでルッセルドルフ(ドイツ)に飛び、乗り換えてコペンハーゲン(デンマーク)。ここで ドイツクルーに合流して成田へ。エアーフランスの窓口で「何って複雑な旅なんだ」と呆れられてしまった。これは、ドイツの放送局が手配してくれたもので変 更可能な格安チケットだから直行便ではなかった。

成田から羽田まで移動して函館へ。成田で荷物を受け取った時、機材の量が異常に多いような嫌な予感がした。我々は5人なのにカートは10個並び満載だ。案 の定、羽田空港で「400キロです」言われ、気が遠くなるほどの超過料金を支払い、函館空港に到着すると、頼んでおいたジャンボタクシーに荷物は乗り切ら ず、タクシーを2台追加してホテルへ。機材運びで全体力を消耗してしまった。

事前に知らされていた荷物リストを確認すると確かに200キロ、ところが30キロの荷物の隣に「×5」、35キロの荷物の隣にも「×5」とある。つまり、30キロの荷物はひとつではなく5つもあったし、35キロも5つあり、当初から400キロの機材で取材予定だった。 機材の重量に配慮できないコーディネーターは失格。この場合は、メモの書き方が日本とは違うのだけれど、細心の注意を払って確認をするべきだった。

翌日、ドイツクルーは函館空港からサハリンに向かうのだが、サハリン航空のカウンターでもまたトラブル。所長さんまで出てきて超過料金をたっぷり払い、 300キロまでは運んでもらえたが、100キロの荷物は函館空港で留守番となった。クルーを見送って振り返ると、荷物満載のカートは3つもあり、一人ではとても動かせない。函館国際空港は一便飛び立つと人影は見えなくなる。シーンとした空港に一人残された私は途方に暮れてしまった。

税関やサハリン航空の協力と理解を得て、倉庫に収納してもらえたが冷や汗ものだった。300キロの荷物を持って旅立っていったドイツクルーはユジノサハリンスクから北方領土へ向かった。ロシア人コーディネーターと数日間の船旅だ。函館に残された私はその後の取材旅行に400キロの荷物をどう運んでいくか、関係各所に問い合わせ準備に追われた。

(2006年10月4日)

取材中のハプニング

北方領土周辺を船で旅していたドイツクルーは台風に見舞われ足止め、予定日に函館に戻ってこなかった。そのため、道内のアポをキャンセルしたり延期したり、ホテルの滞在日を変更したり、携帯電話のプリペイドカードを幾ら買い足してもたりないほど電話をかけ続けた。 サハリン航空で無事にクルーが函館に着くと、税関の担当者がロシアへ持ち出した撮影機材が全て日本に持ち返されたかチェックを行った。その後、400キロの荷物を隣の建物にある運送会社のコンテナーまで運び荷物は陸送、一行は国内線で釧路に飛んだ。

最終目的地、根室まではレンタカー2台、荷物は翌朝の取材に間に合うように運送会社が運んでくれた。

根室のホテルの屋上から国後島や歯舞諸島が望める。数日前、海の向こう側にいたドイツクルーははるばるサハリンと函館を経由して海のこちら側へ戻ってきた。 そして、日本人である私は、海の向こう側へ行くことができない。ビザなし交流に参加するか、外交上の問題になる方法だがロシアにビザを申請して行くか、現在考えられる選択肢は2つだ。私は両方とも選択できず100キロの荷物と留守番することになった。

本来は国境をテーマにした紀行番組なので、国境を様々な手段で越えて、人々の交流の様子を伝えるはずだった。ドイツクルーは千島列島から船やヘリで北海道 に渡りたかったようだが領土問題に阻まれ実現できない。更に、8月におきたロシア国境警備隊による銃撃事件の影響で番組のトーンがすっかり変 わってしまった。根室にやってくるロシア人船員の取材を予定していたのだが、狙いは銃撃事件の衝撃に変わった。私に与えられた仕事は、事件の被害者または 家族に接触しインタビューすることだった。駆け出しの記者だった頃は被害者宅を訪ね歩くのが仕事だったが辛い。被害者をそっとしてあげたい気持ちでいっぱいだった。

度重なる交渉を経て、被害者の家族がカメラの前に座ってくれることになった。家の近くでインタビューされるのは嫌だという先方の気持ちを汲み取って海辺を選んだが、取材クルーは、場所が気に入らない。インタビューを中止すると言い出した。直接交渉していれば、インタビューをやめるという判断はなかっただろう。取材に応じてくれるまでの過程で感じた相手の悲しみや苦しみを理解して欲しかった。 コーディネーターは、代理で交渉をする。言葉に忠実な「通訳」という仕事とは一線を画し、時に相手の心の中に足を踏み入れなければならない。いい番組を制作して欲しいが取材相手の悲しみもわかる。心に葛藤を覚え、迷いながらこの仕事を続けている。

(2006年10月14日)

撮影ロケ、機材セッティングの時間も考慮

ドイツクルーは根室から中標津に移動し養老牛温泉を撮影した。なかでも人気ナンバー1の「だいいち」に宿泊先を決め、先ずは蒲団を敷くシーンを撮影した。担 当者は男性で我々の要望を快く聞き入れてくれた。蒲団一組を2度同じように敷いてもらい、角度をかえて撮影したのだが、ライトを工夫したため単純なシーン のはずが芸術的に映し出された。他人が蒲団を敷くのをじっくり見たことはなかったが、しわを残さず敷いていく動きの早さと的確さに驚いた。ドイツクルーは このシーンで日本人の国民性、「几帳面さ」を説明するらしい。

次は清流のすぐそばにある露天風呂。清掃時間を拝借して入浴客のいない静かなシーンを撮影したのだが、この時にこのクルーがなぜ400キロの機材を運んできたか理由がよくわかった。 クレーンをつかって、カメラワークに変化を加え、美しい自然と温泉をゆったりと撮影するためだ。建物の影からこの撮影シーンを見守りながら、大荷物の苦労も忘れてほのぼのした気分に・・・なりそうだったが、時計を見ると撮影予定時間を大幅に過ぎている。クレーンのセッティングだけ で予定時間が終わってしまった。旅館の清掃担当者が待っている。Time is over !!と、いつもクルーをせかしてばかり。ロケのスケジュールは、セッティングの時間も忘れずに。

(2006年10月15日)

言葉を引き出し、表情をとらえる

阿寒のアイヌコタンにたどりついた。10年ぶりのコタンは紅葉が美しいシーズンだったせいか活気があり観光客が後を絶たない。レンタカーを降りると、「タカ ハシさんかい」という声が後方から聞こえ、アイヌ工芸組合の組合長さんがお店の前に座って待っていてくれた。「エカシは病院へいっちゃったよ。来ない なぁ、って待っていたんだよ」と言う。約束に遅れたのだから当然だが、ドキュメンタリーの重要な場面を占める大切なインタビューなのでエカシの帰りを待つ ことにした。エカシとはアイヌの古老のことだ。アイヌ語を解し、民族の文化を伝承できる古老は年々減っており、貴重な存在だ。

景色を撮影していたクルーは、30分ほど後に到着。エカシ不在の旨を説明すると一同シーンとなってしまった。

夜予定されている催し前にインタビューの時間を設けてもらうことで話がつき、ライトやマイクのセッティングを早々に終えエカシの帰宅を待った。先に組合長 さんがやってきて「エカシはイベント用の衣装を着ているから驚かないようにね」と声をかけてくれた。心の準備はできていたはずだったが、エカシが登場する と、撮影クルーは作業の手を止め、またシーンとなった。エカシは熊の毛皮などアイヌ民族の伝統的衣装を身につけていた。存在感もあり 風格もある。挨拶を一言交わしただけで温かい人柄が伝わってきた。一同、敬意をもってインタビューにのぞんだ。

限られた時間に貴重な話を伺うため、私とディレクターは事前に質問内容を打ち合わせし、ポイントだけ通訳して詳細は後に伝えることにした。このディレク ターは外国でのドキュメンタリー経験も豊富だが、インタビュアーとして非常に優れた能力を持っている。聞きたいポイントが明確で、それを引き出す質問がわ かりやすい。ディレクターのなかには、何を取材したいのか不明確であったり、質問が大雑把すぎて他言語に直すと何を聞こうとしているのがさっぱりわからな くなったりする人もいる。その点、このドイツ人ディレクターは少ない質問数で確信に迫る。取材対象者も答えやすそうだった。

アイヌのエカシには、過去ロシア人と和人がアイヌの人たちとどのように交易し、どんな扱いをされたか、両国の間で翻弄された民族の過去を聞いた。更に、阿 寒湖の山が国後島へ移動したという興味深い神話も語ってくれた。感激の余り何度も身を乗り出したため、カメラマンにそっと肩をたたかれた。私はすぐ横に あったカメラの存在を忘れて、カメラの前に乗り出してしまったのだ。これほど取材対象者に吸い込まれそうになったのは久しぶりだ。

取材後、収録したテープを見ながら翻訳し、ディレクターにインタビュー内容を詳細に伝えたのだが、インタビューの映像を見て驚いた。日本語が解らないはず のカメラマンがアイヌのエカシが心情を語っている時、タイミングよく顔によって表情を撮影している。パーンやヨリの速度がエカシの語りにぴったりだ。カメ ラマンは、ディレクターの質問内容を頼りにエカシの表情だけでインタビューの内容を推測し、カメラワークを決めたそうだ。インタビュー内容も映像も高度な出来となり、非常に満足している。

(2006年10月16日)

お知らせ

このドキュメンタリーは、2007年に無事放送されました。

コンタクト・Contact

リサーチ、取材許可の申し込み、出演交渉から、パートナーとして責任を持って行うプロジェクトまで。 お見積りやご相談を承ります。

お見積り・お問い合わせ

撮影ロケ地からピックアップ

サンプル
養老牛温泉
「湯宿だいいち」

オフィスの本棚

風景ガイド

風景ガイド 美瑛・富良野

風景ガイド""

実績からピックアップ