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「フランス映画」の撮影地を巡る旅。カンヌ映画祭の舞台裏、ほか映画についてまとめます。

Movie Plus制作「旅スル映画~フランス編」

5日間という短い撮影期間でしたが、代表的なフランス映画の撮影地を訪ね歩き、実際の映画との共通点や相違点を伝える面白いドキュメンタリーでした。事前準備のほとんどは、撮影許可申請でした。パリは撮影ロケが多い分、撮影料も高いので、いかに経費をおさえるか、その方法を模索し、提案するのも仕事のひとつです。

こちらは、モンマルトルの坂道にあるカフェ「Les Deux Moulins」。「アメリ(Le Faubleux Destin d'Amelie Poulain)」でアメリが働いていたカフェです。
店長も店員も協力的で、普通は「昼時を避けて欲しい」と言われるのに、厳しい条件もなく迎え入れてもらいました。近所の常連さんたちはカウンターでコーヒーを一杯、観光客はテラスに座ってカフェオレを味わっていました。

「アメリ」のなかにでてきた八百屋さん。アメリの映画ポスターや絵葉書が売られていました。野菜や果物のほか、ワインや乳製品などの食料品を売っているお店です。
店主は、アポなく訪れたにもかかわらず温かく撮影チームを迎え入れてくれました。この付近で、エディット・ピアフの伝記映画「ラ・モーム」も撮影されたそうです。

アメリがよく通ったという映画館「Studio 28」。ライトはジャン・コクトーがデザインしたことでも知られています。奇抜なデザインなのに赤い色調にぴったり合っていました。ここで、映画が始まるかのように館内の照明を落としてもらいました。チケットを売ったり電話の応対をしている女性が、我々の撮影のために照明の操作方法を習得してくれました。「照明の操作もはじめて、上映室に入ったのもはじめて」と結構、嬉しそうでしたよ。

「アメリ」のなかで重要な舞台のひとつとなったパリ東駅(Gare de l'Est)。スピード写真のブースでのシーンを撮影しました。国鉄SNCFは、撮影料が結構高い。何ヶ所も駅を撮影すると撮影料だけで莫大な額になってしまう。撮影許可を求める交渉のなかで、減額交渉をするのもコーディネーターの仕事。それから現場で予定外の要望が出てくることもしばしば。写真のように「高いところから撮影したい」と撮影クルーが希望すると、撮影許可書を持って、現場の責任者に趣旨を話して、書類を書いて、ゴーサインをもらいます。このように、コーディネーターは取材がスムースに運ぶように走りまわりますが、便利な「使い走り」とはちょっと違うんです。

アメリが水切り遊びをしていたサンマルタン運河。パリ市内の公道は撮影許可がいらないのですが、運河沿いや川沿いは特別な許可が必要です。サンマルタン運河のことで話をした担当者の姓も名もとっても長くあまり聞きなれない名前だったので、電話をかけるたびに舌をかみそうでした。
撮影許可は、パリ市のメディア担当と話をつめたあと、各所の担当者と話をし、公園やお墓などは撮影料を支払います。映画の舞台を撮影するという企画趣旨は、多くの担当者の共感を呼んでいたので、やりやすかったです。

この番組では、カンヌ映画祭の舞台裏、映画音楽の舞台裏なども取材しました。クロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」で、ダバダバダ~を作曲したフランシス・レイさんのスタジオ撮影にも成功しました。アポをとるまでに一苦労で、電話で何度も断られたのですが、ロケが始まって最後の最後に承諾してくれました。

カンヌ映画祭の舞台裏は、あの赤じゅうたんが閉まってある倉庫を撮影しました。映画祭開催中にビップが宿泊する豪華な部屋や、地元の人たちが組織するもうひとつのカンヌ映画祭なども取材しました。 (2008年4月5日)

日本テレビNEWS ZERO「カンヌ映画祭」


還暦を迎えたカンヌ映画祭。公式作品にノミネートされた河瀬直美監督と、別組織「監督週間」に選ばれた松本人志監督の取材でした。 カンヌは連日25度を超える暑さ。ビーチに寝そべる人々を横目に、赤絨毯のある公式会場と「監督週間」の会場を往復する日々でした。


「監督週間」の記者会見場は小さなテントでした。「監督週間」にノミネートされた松本人志監督の記者会見。外国人記者からも質問が続々。北野たけし監督に「勝ちたい」と言っていたのが印象的でした。


公式作品として招待された河瀬直美監督のインタビュー。自然な語り口に好感を覚えました。河瀬監督は、パルムドール(最高賞)に次ぐ、グランプリを受賞しました。
(2007年5月12日)

カンヌ映画祭とJuliette Binoche

63回目を迎えたカンヌ映画祭、公式ポスターはフランスの女優ジュリエット・ビノシュです。
彼女は、1985年、21歳の時に「Rendez-vous」でカンヌ・デビュー。
今回(2010年公開)、イランのAbbas Kiarostami監督の「Copie conforme(邦題「トスカーナの贋作」)」に出演し、カンヌ映画祭女優賞を受賞しました。
カンヌ映画祭公式サイト
2010年5月19日

「トスカーナの贋作」は、謎に包まれたまま終わってしまう不思議な映画でした。ジュリエット・ビノシュの映画のなかでは、2000年に公開された「ショコラ」が彼女らしいと思います。
最近は、ダンサーとして舞台でも活躍しています。

映画鑑賞記 La Môme(邦題「エディット・ピアフ~愛の賛歌」

近所を散歩していると、ステージに立っている女性のバックショットが薄暗いスポットライトに浮かび上がっているポスターが目についた。「La Môme」、エディット・ピアフの生涯を描いた映画。
2月18日付けのle Journal du dimanchによると、初日だけで23万人もの人々が映画館に足を運び、彼女の墓地(Père-Lachaise)には白いバラを供するファンが後を絶たない。
ピアフは、娘マルセル(Marcelle, 2歳で他界)と最後の夫とともにこの墓地に眠っている。
日曜日の夕刻、早めに映画館にたどりついたけれども満席。長い列に老若男女が並び、待つことおよそ1時間。ピアフの人気は不滅だ。ばら色だけでは語れないピアフの人生。売れない歌手の母親との貧しい暮らし。父方の祖母が経営する売春宿に預けられた幼少時代。大道芸人の父親とのその日暮らし。歌唱力を見出され、最初につけられた芸名は「La Môme PIAF(小さな雀ピアフ)だった。
ピアフがl’homme de ma vie(人生最愛の男性)と言っていたボクサーのマルセル・セルダンは飛行機事故で他界。マルセルに捧げられた曲、愛の賛歌(Hymne à l’amour)が悲しく響く。立っているのがやっとの状態でもステージにあがり聴衆の期待にこたえようとしたピアフ、最後まで歌い終えることはできなかった。
死の数ヶ月前まで、倒れても起き上がりステージにたった。歌手ピアフは不滅だ。ピアフの人生が色とりどりだったぶん、この映画はばら色に輝いている。これほどまで人々に愛されているピアフ、自分の人生を「ばら色」だったと振り返っているかもしれない。
La Môme オフィシャル・サイト(ピアフの歌を聴くことができます) (2007年2月18日)

お知らせ

クレルモンフェラン国際短編映画祭にアプライした監督をサポートしました。データーを整理して、お知らせします。

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